昭和46年1月3日 特別報修委員

 どうする事がほんとうかということは、なかなかいろんな場合、むつかしいことがたくさんあります。また、迷うことがある。ね。どうすることがほんとうか。
 そういうことの中に、あの、年賀状がありますね。ええ、もう、たくさんの年賀状の中に、ええ、もう、ほんとうに、もう迷惑するのがありますねえ、たくさん。どれもやっぱり、(?)なりませんしね。そして、別に何の御教えもなからなければ、その、まあ、その、年にいっぺんのはがきで、旧情をあっため合うと、いったような、そういう美しいものもなんも、そういうものなんにも考えない。はあ、珍し人から手紙が来とると言ったようなね。と、言えれるならまだいいですけどね。
 もう、全然その、何にもならないのが、たくさんある。これはまあ、あたくしが、ここでおかげを頂くようになって、二十年間ですけど、年賀状は、もう全然出さない事にして。ええ、まいりましたら、ああ、出さなきゃならないと思う(?)人は出すことにしてますから、段々おかげで減っていきますですね。
 ほんとにあの、お互いがですね、いかにもこう、人情から言うと、年にいっぺんくらい、昔知った人の誰でも、ね、あの、お互いの情を温め合うといったような、その、ふうに言いますけれども、実を言うたらね、そうじゃないと思うんですよね。
 あたくし、新たな人達が、新たなね、縁で結ばれていく人達が増えていくことは有り難いけどもね、もう十年も二十年も前の、ただ、年賀状だけで、繋がってるわけでもないけども、それを、あの、交わしておる、という、これはまあ、あたくしの考え方ですよ。
 こんな馬鹿げた話はないなあと、昔の良い風習とか、そういうものは残しておきたいと言うけども、もうこれは、なくしたらなくした方がいいと思うのが年賀状です。わたくしは、そう思うですよね。
 やはり、あの、義理にでも出さなければならないところは、やっぱりありますから、ですけども。ほんとに、もう、何にも感じないものがたくさんあること。それをもし、もう、忙しいのにね、年末の間、年賀状書くだけでも、たいへんですよね。そして、あたしできるだけそういうものは、もう、ふるい落としていかなきゃいけん。ね。そういうものは。 そして、言わばこちらがほんなら、高められていくということは、高められていく範囲においてですね、あの、今度は新たなね、交流を結んでいくという(?)出てくる。これは、大事にしなけりゃいけない。
 けれどももう、そしてね、あな、(?)く、ものは、もう、たとえばもう親戚でもね、たとえば、あのう、それは、ああ、はずれていくならもう、はずれていった方がいいと思うですね。ええ。
 でないとね、真の信心はできませんです。ね。災い、あの、迷惑しますね。進み、進みにくいです。これはもう、ああ、何でもない時にね、(?)書いてから、ああ、(咳払い)。
 あたくしが、いろんな遊芸なんかに、凝っておる時には、やっぱりお友達も、遊芸関係なら、踊ったり三味線を弾いたりして遊ぶ人達が、お付き合いで集まって、やはり、年賀状でも、そういう人達からたくさんきたんですよね。
 ところが今度、こちらが今度は、あのう、お酒を、飲み友達がね、たくさんできてきたら、今度は、集まってくるのも、飲み友達ばかりが集まってくるようになり、こちらが信心に本気で打ち込んで、有り難くならせて頂いたら、有り難くなりたいとか、有り難いとかという人ばっかりが、集まってくるようになり、もう、昔の遊芸友達とか、昔の飲み友達というものは、みんななくなってしまう。ね。
 と言うて、なら、昔の、ああ、何十年前の、三味線ひき友達なんかにですよねえ、義理堅い人なら、やっぱり今でも、年賀状だけなら続いとるかもしれません。けれどもあたくしは、それを、あのう、はずしていきますから、おかげで段々段々減って、そして今度は新たな人、ね、新たなおかげを頂いていくことのための、いわばこちらの分に応じて、お付き合いして下さる方達、をね、それをあの、するだけですけど。
 これは一事が万事に、これは年賀状だけのことじゃありませんけれどね。もう、こんな徒労はありまんよ。ね。
 けども、「ほんとに、お世話になっておった。去年はたいへんご迷惑かけた」と、これはまあ、真心からね、年始にでもいかなきゃならん、遠いところなら、やっぱ、年賀状の一つも出さなきゃならんですけれども。もう、できるだけね、あたくしは、そういうのは、ふるい抜かしていく事の方が、おかげ。
 新たに、自分のその言うならば、その時、たとえば、あたくしが有り難うなっていったら、有り難い人達の集まってくるという、人達の交流を、いよいよ篤く重くしていかなきゃならないのであってね。
 なかなか、これが本当とかね、これがうそとかっていうことに、はなからあたくしの考え方は、まちがっとるかもしれません。まあ、それがね、(??)それこそ、(?)ああ、かもしれませんけれども、やはり、信心をさせて頂くならね、もうあんまり邪魔になる、むかーしの、もう、小学校の友達からね、小学校の先生にまで出す。先生も迷惑なもんですよね。また、出しゃ出さんならんとですから。
 そういう、言わば、虚礼は、廃していかなきゃいけない。虚礼ということでなくて、それはあの、なんちゅうですかね。もう、自分の、高められていくというための人達との、お付き合いが広がっていく事を、願わないかんと思うですね。
 これはまあ、あたくしの、しかし、あたくしの考え方なんですけどね。
 もう、不思議なもんですよ。米俵なんかでも、あげなほんな紙のごたるとで結んで、初めはもう、あげなことではいかんけん、あたくしは全部、また、縄でし直させよりましたたいね。全部。ところが今頃縄でしてごらんなさい。もう、おかしゅうしておかしゅうしてですね、今、やっぱ、ああでなからなきゃいけん。
 もう、そん時そん時にね、素晴らしいものに切り替えていかにゃ駄目。うん。これは素晴らしい、といったようなことにね。ええ。ずーっと旧態以前としてね、もう訳も分からん付き合いにですよね、情も通わんお付き合いのところで、年賀状出すなんて、こげな馬鹿げた惜しい話はありません。手間だけでもです。
 はあ、年賀状がこがしこ来た。もう、こがしこも出しよる、ちてから、出すやつを自慢のごという人があるもんね。もうそりゃ、これだけは、わたしの真似をした人が、ほんと楽ですよ。ね。
 そしてからね、二度目になると、今度は笑われる。ちょいとこの人、下手のや、ち。(笑い)
                                     (翠)